「話す必須性」とどこまで向き合っていくべきか
話さないと伝えられない
自分を「表現」できない
喜び合うことも、悲しみ合うことも
ケンカし合うことすら叶わない
だから、どうしたって「話す」ことは必要。
私たち人間は他者と”会話”を通してコミュニケーションをとることで、
意思疎通をし、協力し合ってここまで生き延びてきたのです。
その必要性を十分に理解しているからこそ、
吃音者は「話さなければいけない」という過度なストレスを抱えたまま、
それでも何とかして話す努力をして必死に生きているのです。
私はそんな悩み苦しむ吃音者の人に伝えたいことがあります。
「別に逃げてもいいんですよ」と。
なぜか?
ここに”3つの真実”があるからです。
1、今現在、あなたは自分なりに必死に生きているということ。
2、現代社会は、まだまだ吃音者に優しくない世界であるということ。
3、大事なことは、社会的地位でも、社会的自立でもなく、あなた自身の手で「自分の生を全うすること」であるということ。
吃音者であっても、めげずに自分の夢や目標に向かって頑張り続けれる人もいるかもしれません。
私は、そのような人を是非とも応援したいですし、他の吃音者の希望になると信じています。
しかし一方で、
吃音によって、社会で生きるのが辛く、
しんどくなってしまった人もたくさんいるでしょう。
実は私もそのうちの一人です。
吃音の難しいところは、
話すストレスがかからなかったり、タイミングが良かったりすると、
スラスラ話せてしまう”時がある”ところです。
スラスラ話せる時もあるために、どもった時、
自分自身では、その「上手く話せる自分」と比べてしまいますし、
相手も、「どうしたの?」っと不思議がったり、戸惑ったりしてしまうのです。
しかも、自分自身ではそれをコントロールできません。
もしも「話す言葉全てがどもっている」としたら、
その方がむしろ生きやすいのではないかと私は少し思います。
自分の吃音症を”受け入れた”上で、あなたはこの社会をどう生きていくのか?
その答えは、人それぞれだと思いますし、時間と共に変わりゆくものだとも思います。
だから、もう一度言わせてもらうならば、
「疲れたなら、逃げてもいい」と思います。
最低限の生きられるお金を稼ぐことが出来れば、それで十分です。
それでは「他の人に合わす顔がない…」ですか?
周りの”体裁”と、自分の”心の平穏”
どっちが大事でしょうか?
両方できればいいのでしょうが、吃音者にそれは無茶な話です。
もしも、逃げたことに対して厳しく批判してくる人がいるのでしたら、
その人にこう言ってください。
「あなたに吃音症の苦しみが分かりますか?」
弱さを武器にするような言い方はあまり使うべきではないのでしょうが、
他に適切に、自分の気持ちを伝えれて、相手に刺さる言葉が見つからないので、
致し方ありません。
心のない言い方をする人は、自分目線でしかないことがほとんどなので、
言葉を真に受ける必要はないのです。
本当に大切にすべきことは、
あなたが今苦しんでいること。
その気持ちに「正直」になることです。
そして、周りの体裁を気にせずに、
今は、自分の「心の平穏を守る」ための手立てを考えることです。
前にも言いましたが、
未来は未来の自分が何とかしてくれます。
そして、毎日を「自分らしく生きること」を積み重ねることで、
時間の経過があなたの吃音の悩みをゆっくりと晴らしていってくれるでしょう。
その未来を信じましょう。
きっと何とかなりますから。
「話すことに囚われない」生活が
あなたの人生を前向きにしていってくれるでしょう。