吃音症を抱えている人がラクに生きるヒント

吃音症と”共生”し、吃音の悩みを乗り越えていくためのブログ

吃音症を抱えながらも懸命に生きる美しさ

吃音症に悩み、苦しみを感じつつも、

それでも、私という人生を全うしようとする姿勢はとても美しいものです。

 

悩み自体は、個人的な問題になるので、

吃音に悩んでしまうことに対して、自分は小さいと思ってしまうかもしれません。

 

しかし、それは違います。

 

 

吃音症は「障害」です。

 

精神的な進歩により、克服し、乗り越えることができますが、

現時点では、確かな障害なのです。

 

 

障害とは、自分の意志でコントロールすることのできない、

生活に不自由をきたす状態のことです。

 

 

悩んで、苦しんで、

 

上手くいかなくて当然なのです。

周りの人と同じように話せなくて然るべきなのです。

 

それでも、克服していくことはできます。

 

 

その今の現状を、楽しむというのは流石に無理かもしれません。

 

 

しかし、そうして悩み苦しみながらもなお、

今こうして懸命に生き延びている。

 

向上しようとしている。

 

そんな自分の生きざまを”美しい”と思ってもよいのではないでしょうか?

 

自分を労わり、もっと大切にしていきましょう。

 

 

 

 

最後に有名な「祈りの言葉」を綴っておきます。

 

 

 

 

 

変えられないことを受け入れる心の平静と

 

 

変えられることを変えていける勇気と

 

 

その両方を区別する叡智とを

神よどうか私に与えたまえ。

 

 

 

 

出来ることしかやりようがない”人間”という、不自由な

 

しかしながら”素晴らしい”生を最後まで美しく生き抜きましょう。 

 

不快感を肯定していく

吃音の悩みはそう簡単に消えるものではありません。

 

正しい知識を得て、

前向きに生き始めることができても、重要なのはそこからです。

 

吃音は自分の”コントロール外”にありますから、

どもる自分を肯定しようとしても、中々上手くいかないことが多いです。

 

 

 

「どもっても別にいいんだ…」

「他の人と違ってもいい…」

 

そう自分に言い聞かせても、

心の中で、「それは気休めに過ぎない…」と思ってしまうことも多いでしょう。

 

 

 

自分を受け入れることはそう簡単ではありません。

 

吃音者にとって、自分の吃音は”劣等コンプレックス”ですから、

まずは、その認識を少しずつ”融解”させていくよりないのです。

 

 

 

 

では、まずどこから始めていけばよいのか?

どうすれば、前に進んでいけるのか?

 

自分を好きになれるのか?

 

 

 

私は、即効性のある具体的な解決策はないと思っています。

もし、仮にあるとすれば、”吃音者”なんて肩書きはこの世に存在しないでしょうから。

 

 

しかし、それでも、私たち吃音者は確実に前に進む努力をしていくべきですし、

それが可能だと思っています。

 

 

 

まずは、自分がどもった時の”不快感”を肯定していくことです。

 

 

 

どういうことかと言いますと、

 

 

自分がどもって恥をかいたり、上手く会話が出来なかった時。

 

自分が”嫌な思い”をした時です。

 

 

その時に、

「あ~なんでいつもこうなるんだ…」

「吃音なんて無くなればいいのに…」

 

 

そういった心の声を、

 

 

「まあどもるのはしょうがないよね。

そして、どもった時に毎回抱くこの”不快感”も自然なことだ。

 

でも、吃音と向き合い、受け入れことが出来れば、

きっとこの不快感も薄れていくはずだから、前向きに生きていこう。

きっと大丈夫。」

 

 

 

こういった声に変えていくことが、”改善の道”につながっていきます。

 

自分の「体の反応」を柔和に受け止めるのです。

 

 

そして、その不快感を

 

吃音のせいでも、

自分のせいでも、

相手のせいにするでもなく、

 

 

ただ、どもるのは”私の一部”だからしょうがないと受け止めるのです。

 

 

 

一朝一夕でなんとかなる話ではありませんが、

 

吃音のせいでも、誰のせいにでもせず、

ただ、「自己受容」を持って強く生きること。

 

 

 

何気ない日常の中で、自分を受け入れ、強く生き続けること。

 

「自分の未来」を信じてたくましく生きましょう。

 

 

 

それは、吃音者に限らず、

生きている者が”活き活き”と前向きに生きていくための「人生の課題」なのですから。

 

弱さは汚点ではない

吃音症は話すコミュニケーションに支障をきたす障害ですから、

ある意味”弱点”であることは間違いありません。

 

まずは、「自分には吃音という弱点がある」ということを、自覚することが大切です。

 

それが、自分を受け入れるということですから。

自分の弱さを認めることは、”弱いこと”ではありません。

ダメなことでもありません。

 

 

むしろ、弱さを受け入れることで、人間は”強く”なることが出来ます。

 

完璧な人なんて一人もいませんから。

強く見える人ほど、「自分の弱さ」を知っているものなのです。

 

 

弱さを認めることは、”諦める”ことではありません。

自分の潜在的な可能性を信じつつ、前に進むための現状の理解なのです。

 

 

「自分自身の今」をできるだけ客観視して、

 

だから今何ができるか

それで自分はどうしたいか

 

 

それを日々考え、行動していく日々なのです。

 

 

吃音症を乗り越えて、アナウンサーになった人がいます。(小倉智昭)

女優になった人もいます。(マリリンモンロー)

総理大臣になった人もいます。(田中角栄)

 

 

 

彼(女)らが特別強かったわけではありません。

自身の吃音を受け入れて、それでも前に進み続けた結果なのです。

 

 

 

結局のところ、吃音の有無はあまり関係なく、

 

 

 

あなたが何をやりたいのか?

 

 

この1点に尽きます。

 

 

 

自分が本当にやっていきたいことを、諦めずに見つけていくために、

まずは、「自分の弱さ」を認めていきましょう。

 

 

言うほど簡単ではありませんが、

 

弱さを受け入れると、”強さ”になる

 

 

このことをしっかりと理解して、日々強く生きていきましょう。

 

「話す必須性」とどこまで向き合っていくべきか

話さないと伝えられない

自分を「表現」できない

 

 

喜び合うことも、悲しみ合うことも

ケンカし合うことすら叶わない

 

 

だから、どうしたって「話す」ことは必要。

 

 

私たち人間は他者と”会話”を通してコミュニケーションをとることで、

意思疎通をし、協力し合ってここまで生き延びてきたのです。

 

 

その必要性を十分に理解しているからこそ、

吃音者は「話さなければいけない」という過度なストレスを抱えたまま、

それでも何とかして話す努力をして必死に生きているのです。

 

 

 

私はそんな悩み苦しむ吃音者の人に伝えたいことがあります。

 

 

 

 

 

 

「別に逃げてもいいんですよ」と。

 

 

 

 

 

なぜか?

ここに”3つの真実”があるからです。

 

1、今現在、あなたは自分なりに必死に生きているということ

 

2、現代社会は、まだまだ吃音者に優しくない世界であるということ。

 

3、大事なことは、社会的地位でも、社会的自立でもなく、あなた自身の手で「自分の生を全うすること」であるということ。

 

 

 

 

 

吃音者であっても、めげずに自分の夢や目標に向かって頑張り続けれる人もいるかもしれません。

 

私は、そのような人を是非とも応援したいですし、他の吃音者の希望になると信じています。

 

 

 

しかし一方で、

 

吃音によって、社会で生きるのが辛く、

しんどくなってしまった人もたくさんいるでしょう。

 

 

実は私もそのうちの一人です。

 

 

 

吃音の難しいところは、

話すストレスがかからなかったり、タイミングが良かったりすると、

スラスラ話せてしまう”時がある”ところです。

 

 

スラスラ話せる時もあるために、どもった時、

 

 

自分自身では、その「上手く話せる自分」と比べてしまいますし、

相手も、「どうしたの?」っと不思議がったり、戸惑ったりしてしまうのです。

 

 

しかも、自分自身ではそれをコントロールできません。

 

 

もしも「話す言葉全てがどもっている」としたら、

その方がむしろ生きやすいのではないかと私は少し思います。

 

 

 

 

自分の吃音症を”受け入れた”上で、あなたはこの社会をどう生きていくのか?

 

その答えは、人それぞれだと思いますし、時間と共に変わりゆくものだとも思います。

 

 

 

 

 

だから、もう一度言わせてもらうならば、

 

「疲れたなら、逃げてもいい」と思います。

 

最低限の生きられるお金を稼ぐことが出来れば、それで十分です。

 

 

 

 

それでは「他の人に合わす顔がない…」ですか?

 

 

 

周りの”体裁”と、自分の”心の平穏”

どっちが大事でしょうか?

 

 

両方できればいいのでしょうが、吃音者にそれは無茶な話です。

 

 

 

もしも、逃げたことに対して厳しく批判してくる人がいるのでしたら、

その人にこう言ってください。

 

 

 

「あなたに吃音症の苦しみが分かりますか?」

 

 

 

弱さを武器にするような言い方はあまり使うべきではないのでしょうが、

他に適切に、自分の気持ちを伝えれて、相手に刺さる言葉が見つからないので、

致し方ありません。

 

 

心のない言い方をする人は、自分目線でしかないことがほとんどなので、

言葉を真に受ける必要はないのです。

 

 

 

本当に大切にすべきことは、

 

あなたが今苦しんでいること。

その気持ちに「正直」になることです。

 

 

そして、周りの体裁を気にせずに、

今は、自分の「心の平穏を守る」ための手立てを考えることです。

 

 

前にも言いましたが、

未来は未来の自分が何とかしてくれます。

 

そして、毎日を「自分らしく生きること」を積み重ねることで、

時間の経過があなたの吃音の悩みをゆっくりと晴らしていってくれるでしょう。

 

 

その未来を信じましょう。

きっと何とかなりますから。

 

 

 

「話すことに囚われない」生活が

あなたの人生を前向きにしていってくれるでしょう。

 

 

 

 

隠そうとしなくていい

吃音者はとにかく自身のどもりを「隠そう」とします。

 

そして、自分が吃音者であることを他者に隠そうとし、

自分自身ですらも吃音を受け入れられていない人がほとんどです。

 

 

他者と比較して、上手く話せない自分を否定してしまうのはなぜなのでしょうか?

 

 

 

それは、他者からも、自分からも、

頑張ればできそうに見えるからです。

 

 

吃音は心の内面の問題ですから、

目に見えません。

そして、一般社会ではまだまだ認知度が低いです。

 

 

それ故に、他者からはできない理由が分かりづらいですし、

自分自身ですらも、自分の心の状態をハッキリと言語化できるものではないでしょう。

 

 

 

そういった状況がますます吃音者を苦しめ、

自己否定と劣等感を強めてしまう原因になりかねないのです。

 

 

人間なら誰しも、一つや二つ「苦手なもの、劣等感を抱いているもの」があるものです。

 

 

 

例えば、背がすごく低い男性Aさんがいるとします。

 

周りの人たちは大体170cmはあり、低い人でも160cmはあるでしょう。

 

ところがその人は155cmしかありませんでした。

 

 

多少の低身長なら同士もいますし、愚痴を言う話題に使われる程度でしょう。

しかし、160cmを下回る”低すぎる人”はほとんどいません。

 

 

同士がいないのです。

つまり、理解者がいない

(わけではありませんが、共感者はごく少数でしょう。)

 

しかも、身長は伸ばそうと思って伸ばせるものではないため、

その状態がずっと続きます。

 

 

これが、「わたしはここにいていいんだ」という”所属感”の欠如であり、

孤独への恐怖なのです。

 

 

では、Aさんの立場に戻って

「低身長であることは劣等感をもつべきこと」なのでしょうか?

 

バレーボールでは、「リベロ」というポジションがあります。

バスケットボールでは、「ガード」というポジションがあります。

 

どちらも低身長だからこそ与えられた役割なのです。

 

スポーツに限った話ではなく、

低身長だからこそ、生かせる仕事、役割が必ずあります。

 

Aさんの劣等感は、単なる主観でしかなく、

”劣等性”ではなかったのです。

(ちなみにそのAさんは他でもない「私」です)

 

 

 

話を戻します。

 

吃音者の人数は少なく(人口の1%と言われています)、

理解者・共感者も少ないのが現状でしょう。

 

 

「わたしはここにいていいんだ」という”所属感”の欠如と、

孤独への恐怖を感じることがあるかもしれません。

 

 

 

しかし、それらの感情は自ら生み出した「劣等感」でしかなく、

”劣等性”では決してないということをどうか忘れないで下さい。

 

どもりの現象だけをみれば、劣等性に見えるかもしれませんが、

「吃音者は優秀な人が多い」という話を思い出してください。

 

 

どもるのには理由があるのです。

そこに善悪は特になく、「自分はどもりやすい性格と資質なんだな」とただ自分を受け入れてあげてください。

 

 

 

あなただからこそ、できる仕事

あなただからこそ、こなせる「役割」がきっとあります。

 

 

 

隠す気持ちをなくしていき、

「自分にできること」をただやっていきましょう。

 

その道は、楽ではないでしょうが、

苦難でもありません。

 

 

 

自分の吃音を丸ごと受け止め

会話の「話題」にできるくらいに自己肯定できれば、

 

その時にはもう、それほど吃音に悩まされることもないでしょう。

 

 

 

 

過去は存在しない

吃音者であれば、

どもって上手く話せずに、苦い思いをしたり、恥をかいたり、

 

強いショックは”トラウマ”として、

あなたの心に深い傷として刻まれていることでしょう。

 

 

 

私にも、ずっと忘れることが出来ない、

「学生時代に、大勢の前で盛大にどもって笑われた」記憶があります。

 

 

トラウマとしての記憶は、もしかすると、

この先一生忘れることが出来ないものかもしれません。

 

 

 

ですが、考えてもらいたいことがあります。

 

 

それは、

過去は”存在しない”ということです。

 

 

過去にどもった記憶、トラウマの記憶

それを忘れることは簡単ではないでしょう。

 

 

しかし、その記憶は「終わった」ことであり、存在しません。

記憶は、単なる記憶でしかないのです。

 

 

それに、吃音者の視点からは中々見えずらいことですが、

 

 

非吃音者は、過去にあなたがどもったことを

全くといっていいほど覚えていません。

 

 

正確には、覚えている人はいるかもしれませんが、

 

どもりに対しての「関心」がないのです。

(決して思いやりがないわけではなく、”分からないから”なのです)

 

「そういえば、この人話すの苦手だったんだな」くらいなのです。

 

 

 

どもったことに対して、指摘したり、笑ったりする

”浅はかな人”もいますが、

 

 

その人であっても、どもった”現象”に対して思わずアクションしているだけで、

特に深い意味はないのです。

 

 

そういう人ほど、あなたがどもったことすら忘れているものです。

 

 

 

あなたが、過去にどもって恥をかいた相手であっても、

恐れる必要はありません。

 

 

吃音は、話す相手が「どもりに対して受け入れてくれなさそうな人」の場合は

症状が悪化することが多いので、

 

またどもってしまうかもしれませんが、

そのことを恐れる必要はないということです。

 

 

「相手は、ほとんど自分のどもりを覚えていない。

指摘したり笑ってきたりしても、別にどもりに関心はないんだ」

 

 

繰り返し会話を重ねる必要のある相手に対しては、

 

毎度このような心持ちで、話をする習慣をつけていくと、

悩みは軽減されるはずです。

 

 

 

自分自身に対しても、過去のことで”卑下”する必要は全くありません。

 

 

 

・過去に大事なところでどもった…

・上手く相手に伝えられなかったから呆れられた…

 

だから自分に自信が持てない。

今後上手くやっていける自信がない。

 

 

 

その気持ちは痛いほど分かりますが、

過去のことを考えたところで今は変わりません。

 

 

人間は、今を精一杯生きることでも大変なのに、

過去まで背負っていたら、今を生きることがとても辛くなるのは当たり前です。

 

 

 

過去は存在しない

 

 

 

中々割り切れる話ではなく、

「分かったところでどうしろと」という所もあるでしょう。

 

 

ですが、この考えは

あなたが、吃音の悩みから解放されるために、”とても大切な”考え方である

 

ということだけは覚えておいてくださればと思います。

 

 

 

あなたの自室や、常に携帯しているスマホカバーなどに、

この言葉を紙に書いて、見える場所に貼って(挟んで)おくと良いかもしれません。

 

 

とにかく「”今”を真剣に生きること」が吃音者にとっては特に大切です。

 

 

過去に飲み込まれないように、今を強く生きましょう。

 

 

 

未来は「未来のあなた」が、きっと何とかしてくれるのですから。

 

 

生きる価値がない?

吃音という障害は、とても苦しく、

向き合い方を違えると、”自己否定”の渦に飲み込まれてしまいます。

 

 

「どもって上手く言葉を発せない自分は”劣等人間”だ。

そんな自分が生きる価値があるのか。

 

自分が孤独感に苦しむだけで、

誰かの役にも立たない。

しかも、直ぐには治すことが出来ない。

 

一体自分は”何のため”に生きてきたのか。

苦しむために生まれてきたのか?

人生とは何なのか?

……」

 

 

吃音歴の長い方なら、何度も同じようなことを考えられたのではないでしょうか。

 

 

吃音者は、生きる価値がない…?

 

 

 

 

この考え方は”間違っている”ことは言わずもがなですが、

 

生きていれば、

このように考えてしまうほど、追い詰められてしまうことがあるのが

難しいところです。

 

 

 

ですが、きっとあなた自身、自分が、

「本当に”全く価値のない”人間だ」

とは思っていないはずです。

 

 

生きること自体が尊いことであり、

少なくとも、誰か一人の「何らかの役に立っている」と感じていることはあるでしょう。

 

 

「吃音の自分にもできることはある」と信じていない人は、

そもそも本文を読むことはないでしょうから。

 

 

 

本心では理解できているはずなのに、私たちはつい考えてしまうのです。

 

 

 

これに関しては、

知識を得たり、考え方を変えるだけでは、中々変えることが難しいです。

 

 

 

あなたがやるべきことは、

 

 

・自分が出来ることを見つける。

・適職を見つける。

ことです。

 

 

別に仕事じゃなくても構いません。

他者に何か貢献できることを見つけて、行動していくこと。

 

 

私の場合は、

自分の体験を文章にして、読んでくれる人の励みになるような文章を書くこと

 

でした。

 

仕事以外では、

 

お皿を洗ったり、

家の掃除をしたり、

料理を作ってごちそうしたりします。

 

 

 

貪欲に感謝を取りに行くのはあまり良くありませんが、

 

「ありがとう」や、

「助かったよ」と、

自然に言われる行動を積むことです。

 

 

他者に貢献して、感謝されることは、

あなたにとって貴重な生命エネルギーになります。

 (※仮に感謝されなくても、”役に立った感”が持てれば、

それだけで行動する価値はあります)

 

 

目先に関してみると、全く価値のないものに見えるかもしれませんが、

今後、あなたが吃音と「前向きに向き合って生きていく」ためには、

”必要不可欠”といっても過言ではありません。

 

 

吃音の症状の重さは関係なく、

「生きる価値がない」と思ってしまうということは、

 

あなた自身の

自分に対する「自己肯定感」が”著しく低い”証拠なのです。

 

 

 

しかし、事態を深刻に考える必要はないのです。 

今は低いだけで、経験を積めば上げていけるのですから。 

 

 

あくまで冷静に、自己肯定を上げていくための、

「他者貢献の行動」をしていきましょう。

 

 

 

己の”自己否定”を乗り越えていきましょう。

そうすれば「道」はきっと開かれます。

 

 

吃音は全く関係なく、あなたにはたくさんの”生きる価値”があるのですから。

 

 

「人間の生存価値と、自己容認」を、人生をかけて勉強する

そのために私には吃音があり、

私に与えられた「試練」であるということ

 

そのような気持ちで是非日々を強く生きてみてください。 

 

 

 

簡単ではありませんが、前向きに生きる”姿勢”を持つことで、

幾分か生きやすくなるはずです。